こんにちは。義肢装具士科の山藤(さんとう)です。
パラリンピックが先日、終了しましたね。
東京で繰り広げられる熱い戦いを皆さんは観戦しましたか?
唐内先生も、修理サービスセンターから帰ってきて現在ブログを書いてくれています!
近日中にアップしますので、ぜひ確認してみてくださいね!
さて、みなさんはパラリンピックの事をどのくらい知っていますか??
今日は原点に振り返り、パラリンピックについて書いていこうと思います。
そもそも、パラリンピックって?
パラリンピックは、障がいのあるトップアスリートが出場できるスポーツの祭典であり、世界最高峰の国際競技大会です。
4年に一度、オリンピック競技大会の終了後に同じ場所で開催され、夏季大会と冬季大会があります。
東京パラリンピックでは、22の競技が行われ、義肢装具士は様々な場面で関わっています。
パラリンピックの歴史
―最初はパラリンピックという名ではなかった。
パラリンピックの原点は第二次世界大戦(1939〜1945年)後にあると言われています。
その始まりは1944年。
戦争で負傷した兵士達の中でも脊椎を損傷し体に麻痺が残る兵士が急増する事を見越した、イギリスのチャーチル首相らが、兵士の治療と社会復帰を目的に、ロンドン郊外にあったストーク・マンデビル病院内に脊髄損傷科を開設しました。
初代科長は医者であるルードウィッヒ・グットマン卿。
彼はリハビリにスポーツを取り入れたスポーツ療法を行いました。
1944年にパンチボール訓練を、1945年からは車いすによるポロやバスケットボール、卓球等を導入。
1948年に行われたロンドンオリンピックにあわせて、病院内で車いす患者16人によるアーチェリー大会を開催。
これがパラリンピックの原点となり、この大会は毎年開催されました。
1952年、オランダの参加を得て国際競技会へと発展し、第1回国際ストーク・マンデビル大会となりました。
1960年に、オリンピック開催年に実施する大会だけは、オリンピック開催国でオリンピック終了後に実施することが決まり、この年にオリンピックが開催されたローマで国際ストーク・マンデビル大会が開催されました。
このローマ大会は、第1回パラリンピックと位置づけられています。
(この時点ではまだパラリンピックという名でも無く、オリンピックとは別の大会として扱われていました)
1962年、国際身体障がい者スポーツ大会の開催に向け準備委員会が設立。
委員長に当時の社会福祉事業振興会会長(元日本障害者スポーツ協会名誉会長)の葛西嘉資氏が就任。
当時グットマン卿に師事していた中村裕博士(社会福祉法人太陽の家やフェスピック連盟の創設者)とともに大会開催の準備を進めました。
1964年に身体障がい者スポーツ大会は、東京オリンピック直後に2部制で開催され、これが第2回パラリンピックと位置付けられています。
今回57年ぶりに東京で開催されている東京パラリンピックは、第16回目のパラリンピックです。
【パラリンピック】という名称は日本生まれ
「オリンピック開催年にオリンピック開催国で行われる国際ストーク・マンデビル大会」=
「Paraplegia(対まひ者)」
+
「Olympic(オリンピック)」=「Paralympic(パラリンピック)」
という発想から、東京オリンピックの際に日本で作られ、名付けられた愛称でした。
今ではギリシア語の接頭語である
「パラ」=「Para(沿う、並行/パラレルのパラですね!)」
+
「Olympic(オリンピック)」=「Paralympic(パラリンピック)」と解釈することになっています。
パラリンピックのシンボルマーク
シンボルマークとはオリンピックで言う五輪の事。
パラリンピックのシンボルマークは「スリーアギトス」と呼ばれています。
「アギト」とは、ラテン語で「私は動く」という意味で、困難なことがあってもあきらめずに、限界に挑戦し続けるパラリンピアンを表現しています。
赤・青・緑の三色は、世界の国旗で最も多く使用されている色ということで選ばれました。
パラリンピックと義肢装具士
義肢装具士は代表選手団のメカニックとして同行し、選手のサポートを主に行っています。
選手村の修理サービスセンターや競技会場内に設営される修理ブースで、世界中から派遣された車いす技術者、溶接の専門家、義肢装具士が協力しながら、選手が100%の実力を出せる様にスタンバイをしトラブルがあった時は迅速にサポートを行います。
東京パラリンピックでは三田校から義肢装具士科4年制教員の唐内健太先生がサポートメンバーとして参加していました!!
テレビ等ではなかなか放送されませんが、縁の下の力持ちとしてアスリートを支えています。